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伊藤大輔 (映画監督) : ミニ英和和英辞書
伊藤大輔 (映画監督)[いとう だいすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
映画監督 : [えいがかんとく]
 (n) movie (film) director
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 
監督 : [かんとく]
  1. (n,vs) (1) supervision 2. control 3. superintendence 4. (2) director 5. superintendent 6. supervisor 

伊藤大輔 (映画監督) : ウィキペディア日本語版
伊藤大輔 (映画監督)[いとう だいすけ]

伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年10月12日 - 1981年7月19日)は、日本映画監督脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。
==来歴==

===映画監督へ===
1898年(明治31年)10月12日愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。
1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作中村草田男重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き〔『BSコラム 渡辺支配人のおしゃべりシネマ館「伊藤大輔・王将」』〕、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠製図工として勤務する〔第一回 わが師を語る 伊藤大輔監督を山内鉄也監督が語る 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan 〕。
1920年(大正9年)、呉工廠内で宮地嘉六が主宰する演劇グループに参加したため、労働組合との関係を疑われて同社退社〔佐藤忠男 『日本の映画人―日本映画の創始者たち―』 日外アソシエーツ、2007年、61頁〕。やむなく文通していた小山内薫を頼って上京。伊丹万作と同居生活をしながら、2月に創立された松竹キネマ付属の松竹キネマ俳優学校(小山内が主宰)に入る〔佐藤忠男 『溝口健二の世界』平凡社ライブラリー、2006年、422頁〕。同年、小山内薫の推薦を受けて、田中欽之監督・ヘンリー・小谷撮影の『新生』のシナリオを執筆する。以降松竹蒲田撮影所で50本以上の脚本を書いたあと、1923年(大正12年)に帝国キネマ芦屋撮影所に移って20本以上のシナリオを執筆する。
1924年(大正13年)、国木田独歩原作の『酒中日記』で監督デビュー。同年、『剣は裁く』が時代劇第1作となる。
1925年(大正15年)、東邦映画製作所に入社して同社第1作の『煙』を監督・脚本するが、この1作きりで退社し、伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)を設立、稲垣浩岡田時彦らが研究生として所属した〔『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)〕。設立第1作の『京子と倭文子』や『日輪』三部作を監督するが独立自体は失敗に終わる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊藤大輔 (映画監督)」の詳細全文を読む




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